2022-11-13 TRPG断片

  • そういえば、一度回すには回して途中まで書くには書いたシナリオが2〜3本ある。せっかくだからどうにかしたい気もするが、清書もなかなか気力を使う。モチベーションがないと難しい。
  • TRPGの本もだいぶ処分した。でも一応、自分にとってコアな部分の本は残したのだけどもそれが結構な量であり、この先使うことがあるかというと怪しいので、いっそそれも処分するかと思う。扱いに困るのはレアな本(R&Rのシノビガミ閨合戦ルール掲載号とか……)。どうしても欲しくて、絶対に転売しないという人がいたらなあ。
  • 実のところ暇潰し&頭の体操にシナリオを作るぐらいはしてもいいのだが回す機会がない(セッションをする気力がもうない)ので作ってもしょうがないという事情。自信もない。
  • 趣味を失ったことは残念に思う。しかし、特に最近は「TRPGのことを考えていない時の方が精神的に調子がいい」という具合で(セッションの時間になると元気は出るし楽しかったのだけれども)、限界だったのだろう。

TRPGやめた話(トラブル系の話ではありません)

そういうわけでTRPGをやめることにしました。
何かトラブルがあったわけではありません。例えば特定のセッションでトラウマになるようなことがあったとか、人間関係がこじれたとか、同人活動をしていて嫌な体験をしたとか、そういうのは残念ながら(趣味をやめる理由としては)比較的ありがちなことかと思いますが、私の場合は違います。
もし、私と遊んだことがあって、「あれがよくなかったかな」「ああすればよかったかな」とか色々考えてしまっている方がいたとしたら、あなたに非は一切ありませんので悩まないでください。(と言うと自意識過剰ですが、私自身が結構そういうことをくよくよ考えてしまうタイプなので、念のため……)

じゃあ理由はなんでしょうか。
もはやちゃんと書く気力もありませんので箇条書きでいきます。

  • 生来、他人と自分を比べたり、他人の目をものすごく気にしてしまったりするタイプなので、対人ゲームを遊ぶことに限界が来た
  • 自分のプレイヤー的・GM的技量の天井がだいたい知れてしまい、飽きた
  • 「今日はのんびり休みたいな」という日でもセッションの約束が入っていると遊ばなければならないのが辛くなってきた(息抜きのはずの趣味についてこう感じてしまうのがもう限界だったんだなという感じですが……)
  • オンラインセッションを遊んでいるとどうしてもTwitterは必要になってくるが、Twitterそのものに嫌気が差して見るのが苦痛になった
  • 同人活動もがんばりすぎて疲れた

一言でいうと「限界が来た」ということかなと思います。以上です。
楽しいこともたくさんありました。TRPGを始めなかったら一生出会わなかっただろう人ともたくさん遊ぶことができました。TRPGは一時期たしかに私の人生を照らしてくれた光でした。ありがとうございました。

無題

たまにはブログくらい書こうかと思うものの、どうもブログは一つの「記事」としてちゃんとまとまった、有益な、アクセス数を稼げる文章を上げないといけないような圧力を感じて(勝手に感じているだけかもしれない)、書く気が起きない。

はてなブログではTwitterのいいねみたいに気軽に星を送ってもらえるし、注目記事はキャッチフレーズつきでトップページに載せてもらえたりもする。しかしそれは裏を返せば、自分の記事がいかに注目されていないかも可視化されるということだ。といって、別にこのブログに注目してほしいわけではない。でも星がついたら「あっ、読んでもらえている」と嬉しくはなるだろう。それが続いたら? 「今回は星をたくさんもらえた!」「この記事はあまり星がつかなかった……みんな興味のない話題なんだな」「この記事は受けるはず……」とだんだん自分の書きたいことより他人の関心を気にするようになってしまうだろう。(これははてなブログの問題というよりは私の性格の問題とも言えるが、私の性格だけに問題があるのかは定かでない)

私たちの人生や生活や思考はコンテンツではないということについて考えていた。現代では誰もが自分の断片や自分自身をコンテンツにできる。SNSはそうするように仕向ける。だが、私たちの人生や生活や思考は他人を面白がらせるために存在しているわけではない(ちなみに、私は自分自身をコンテンツにするべきではないと言っているのではない)。私の人生や生活や思考は、もし私がその気になれば(そして才能に恵まれていれば)面白いコンテンツに加工して他人に提供できるだろう。その行為が生む益ももしかしたら少なくないだろう。だがそれ以前に、あるいはそれとは別に、私の人生や思考は私だけが体験している私自身のものであり、私にとって唯一無二のものであり、そこに他人の価値判断が介在する余地はない。他人にとって、つまりコンテンツとして面白いかどうかとは全くの別次元で、私の人生は存在し、私はそこに生きている。